お待たせしました。
監督および原作者公認の深読み大会、
【イブセキヨルニ・ギャラリー】
第三回まいります。
ちなみに同作品については
平松監督ご自身が、「イブセキヨルニの技術面」という解説をブログで書かれています。
の2つですが、これは必読。
ひとつの思考、
ひとつの情感を
映像として画面に定着させるために
どれだけの技術的裏付けが必要か
これを読むとよく分かりますよ。
さて。
GKの自由革命が、要するに売国政策の羅列だったと気づいた人々は
激しい反政府デモを展開。
国会周辺は修羅場となります。
© さかき漣 © nihon animator mihonichi LLP.
まず注目したいのは、
国会議事堂+左右両側の樹木という構図。
これを下の画像と比べてみましょう。
© さかき漣 © nihon animator mihonichi LLP.
視点の角度こそ違いますが
相似形をなしています。
この暴動をもたらしたのは
かつてGKを支持したのと同じエネルギーだということが
視覚的に表現されているわけです。
背後の花火が
疑似的なオーガスムの意味合いを持つことは
「新日本経済新聞」にも書いた通りですが
はたせるかな、手前には人影が横たわっている。
後ろ姿なので、これだけだと誰なのか分かりづらいものの
平松監督によると秋川進とのことです。
ならば花火も、不能となった進のオーガスムになりますが
一人で横たわっているということは
この激しい衝突も、しょせん自慰行為にすぎないことを
暗示しているのかも知れません。
そして最後の画像。
© さかき漣 © nihon animator mihonichi LLP.
凉月みらいの名前が
「未来」と重ねられています。
けれども私が注目したいのは、
みらいがこんな趣旨の台詞を口にしたこと。
あなたは私に、本物の未来を見せてくれた。
なぜか。
この人、名前が「みらい」なんですよ。
〈本物の未来〉って、自分自身のことじゃないんですか?
その場合、先の台詞はこうなります。
あなたは私に、本当の自分を見せてくれた。
なるほど、これがみらいの本音なのかも知れません。
しかし問題は
「イブセキヨルニ」の世界において
本当の自分を見せてもらうことは、そもそも可能かということ。
平松監督ご自身の言葉を引きましょう。
今回の絵コンテでは目線の扱いを注意してやってみました。
会話シーンの目線が次のカットで相手が変わり、場所も時間も飛んでいる。
そこにセリフ以上の意味が生じる一種のモンタージュを試してみました。
(「美術・作画・撮影編」より)
たとえば進がみらいを見つめて
みらいが見つめ返したとしても
その目線の向けられた先が進とは限らない。
みらいが進を見つめた場合も同様です。
自分の目線が誰に向いているのか分からないとき
本当の自分を見せてもらうことは不可能ではないでしょうか?
映像表現という点から考えたとき
「イブセキヨルニ」のメッセージは
〈視線のかみ合わない(=本当にはコミュニケーションの成立していない)世界では、
人は堂々めぐりを続けるしかない〉
なのです。
そしてこう考えるとき
ラストシーンが生きてくる。
さかき漣さんの原作でも最後の場面となっている
GKと丹沢なお子の再会です。
今まで「視線をかみ合わせない」演出をしてきた平松監督、
ここでは二人の視線を真っ向からかみ合わせます。
とはいえ・・・
思い出して下さい。
GKはなお子に憧れていたのではなく
自分がなお子になりかったかも知れないのです!
ならば、この場面における視線の交差も
じつは虚妄ではないのか?
GKとGKが見つめ合っているだけではないのか?
亡国の代償を払って、コミュニケーションは回復されたのか。
それとも亡国を経てなお、われわれは自閉したままなのか。
答えを見出すには、
あらためて作品を見直すしかありません。
ではでは♬(^_^)♬
6 comments
平松禎史 says:
6月 2, 2015
ありがとうございます。
視線の交錯を取り上げて頂けたのはとてもうれしいです。
ちなみに国会議事堂の前に横たわっているのは進です。
進は結局、誰にも救われることはなく、駒ヶ根も同様に(原作では)絶望に直面させられて物語を閉じます。
ところで
ヒッチコック映画で花火といえば「泥棒成金」です。
トリュフォーとのロングインタビュー本「映画術」では、当時の映画業界が性的表現に厳しかったため、ケーリー・グラントとグレース・ケリーのラブシーンの「オーガスム」として花火を用いたと語っていました。
花火や爆発、鉄砲や大砲を性的なモンタージュに使うのは映画の古典ですね(^_^)
SATOKENJI says:
6月 2, 2015
ありがとうございます。
ちなみにレオス・カラックス監督の「ポンヌフの恋人」でも、花火がオーガスムの象徴になっていました。
平松禎史 says:
6月 2, 2015
「みらい」の名前が「未来」と重ねられていることは日本人なら聞いたまま理解できるのですが、外国人にはわかりません。
そこで、英訳を担当して下さった兼光さんは、「みらい」という名前が「未来」を意味することを語らせてくれました。
日本語と英語字幕と映像、三者の組み合わせで意味が非常に深くなったと思います。
さかき漣 says:
6月 2, 2015
佐藤先生、平松監督、こんばんは。
お二方の考察大会、とても興味深く拝読しております。
私のほうでの”裏設定”なら山ほどあるのですが、すべてを明かしてしまうのも無粋かと存じますので・・・
本エントリーの趣旨は、「平松演出の魅力の掘り下げ」ですし。
さて「コミュニケーションが成り立っていない、堂々巡りである」というご指摘について。
佐藤先生のなんたるご慧眼かと。
人々の苦悩も、世界のあらゆる問題も、すべてはつまり・・・
原作小説「顔のない独裁者」についても、あえて、”不安定なつくり”、”かみ合っていないバラバラ感”を意識しました。
読者の期待を裏切るように裏切るようにと。
Gkと進が表裏一体であるように、なお子とみらいも表裏一体、もっと言えば”同じ存在”です。
こちらはおそらく、先生も既にお気づきのことかと存じます。
みらいはGkに出会って以降、本来の自分を見失い、その後は不安と焦燥のなかで必死で足掻いていただけでした。
ただ”本当の自分を取り戻したい”と切望しながら。
平松監督というかたは原作の裏まで深く読み取り、私には無い才の部分で作品を花開かせてくれた、稀有な存在です。
また佐藤先生の深読みというか評論については、感服するばかりです。
長々と失礼いたしました。
SATOKENJI says:
6月 2, 2015
光栄です。ありがとうございます。
平松禎史 says:
6月 3, 2015
佐藤先生とはよくヒッチコックを例にした議論になるのですが。
ヒッチコック映画の重要な要素が、一人の人物の光と影を二人の人物に託して語る物語が顕著だからです。
「顔のない独裁者」に惹かれたのは、今日的な全体主義現象(が大切な文化を蔑ろにしていく様)を描いた小説だったことと、人物の二重性でした。
「疑惑の影」の二人のチャーリーや、「見知らぬ乗客」のガイとブルーノ、「舞台恐怖症」の主人公の現実と演じる虚像、「サイコ」の二人のベイツ、「ファミリー・プロット」の二組のカップル。
コミュニケーションの問題ですね。
これって現代でも通用するモチーフだと思います。
三橋メルマガでも書きましたが「ダークナイト」も同様のモチーフを扱っていました。
「イブセキヨルニ」はかなり「原液」な感じでしたが、エンタメに落としこみつつ何かを感じられるような作品を作れたら良いと思います。